書簡23 大正5(1916)年9月6日『保阪嘉内あて』の葉書 1916(大正5)年9月5日
書簡23 大正5(1916)年9月6日『保阪嘉内あて』の葉書
1916(大正5)年9月5日
この時期賢治は、秩父方面に 土性・地質調査見学に出かけています。
その日程を堀尾青史著「年譜宮澤賢治伝」や原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」、また詳細に調査された文献として「宮澤賢治『修羅』への旅」萩原昌好著により調べると次のとおりでした。
- 9月1日盛岡発(午後7時)の列車にて出発。
- 9月2日午後12時53分上野着。賢治は午前中帝室博物館。
関教授指導の秩父、長瀞、三峰地方土性地質調査一行(農学二部、林科生)と上野駅で合流。
午後1時20分の列車で上野発。
熊谷へは午後3時20分に到着。
「蓮生坊」の歌を詠む。
熊谷に一泊したと推定。
(その後、熊谷、寄居、小鹿野、三峰山に行く)
- 9月3日熊谷より寄居、寄居から末野を経て国神まで。
立が瀬、象ケ鼻、荒川河岸の観察、親鼻橋近くの紅簾片岩(こうれんへんがん)等を調査。
梅乃屋に一泊したと推定。
- 9月4日国神より馬車で小鹿野まで。
途中、随時調査を重ねて「ようばけ」調査。
その夜は寿旅館に一泊と推定。
- 9月5日小鹿野より三峯山まで。
林学科との合同調査を重ね、三峯神社宿坊で一泊。
- 9月6日三峯山より秩父大宮まで。
三峯山を降り、影森の石灰洞を見学して、角屋で一泊と推定。
- 9月7日秩父大宮より本野上を経て、盛岡へ帰郷。
列車は午後11時と推定。
そんな旅先から親友の保阪嘉内へ便りを届けていますが、9月6日の消印の葉書に
(1) 友だちはあけはなたれし薄明の空と山とにいまだねむれり。
(2) 大神にぬかづきまつる山上の星のひかりのたゞならぬくに。
(3) 星月夜なほいなづまはひらめきぬ三みねやまになけるこほろぎ。
(4) こほろぎよいなびかりする星の夜の三峰やまにひとりなくかな。
(5) 星あまりむらがれる故恐れしをなくむしのあり三峰神社。
と、星空や薄明の夜明け時をうたった短歌が5作品あります。
三峰神社にある日誌の記録から、賢治たちが宿泊したのは9月5日の晩であることがわかりますので、その星空を再現させてみましょう。
この日の三峰山付近における日没などの時間を計算すると、
日の入 18時11分
薄明終了 19時39分
となります。
(1)の作品では、夜明けの薄明の空のもとまだ眠りについていることが歌われています。
この詩が、宿坊で詠まれたとするのであれば、6日の夜明けでしょうか、この日の薄明開始時間は3時48分、日の出は5時15分です。
この間に賢治が目覚めたのでしょう。
(2)の作品では、「山上の星のひかり」のという部分より、明らかに三峰で詠まれたことがわかります。
山の上で見る星空の美しさは格別です。
賢治もそんな山での夏の夜空に感激したことでしょう。
シミュレーションした画面は20時の南の空のものです。
見てすぐわかるとおり、この晩の月齢は7.8(20時)で、ほぼ半月です。
月あかりにで星の見える数は減ってしまいますから、月が沈む、あるいは山影に隠れてしまった時間にでも詠んだ歌でしょう。
この日の月没時間は、22時24分です。
(3)の作品では、明らかに月没後の様子を思わせます。
「星月夜」とは、「星と月がきれいな夜」という意味ではなく、「星あかりが、月夜のように明るい夜」をさします。
(4)の作品でも、(3)と同様に「こおろぎ」と「いなびかり」が登場します。
夏の夜の星夜の雰囲気がでています。
(5)の作品では、その星空のあまりのすばらしさに鳴く虫(こおろぎ)を詠んでいます。
この晩、20時20分には、月と交代するかのように東空に-2.7等の木星が昇り、輝いていたことでしょう。
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