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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.353〜P.357)

第五十五話(一九九四年四月二十九日 名古屋支部)

 四月、細川政権が予言どおり倒れ、そしてこの羽田政権が成立した。この羽田政権が、いったいいつまでもつのかというと、これは今年の十一月までもつように規定されている。そして、政局その他は今回の細川から羽田への移行、こういうものではない、もっとより混迷、というより、ぐちゃぐちゃな状態に、この日本はいよいよ突入する。これらはすべてフリーメーソンの計画どおり進められている。
 では、フリーメーソンは、なぜこのぐちゃぐちゃな状態を作ろうとしているのかというと、彼らはもともと人間ではこの地上、地球というものはコントロールできず−−ここでいう「コントロール」とは支配という意味だが−−支配できず、そしてそれゆえに聖書の予言あるいはノストラダムスの予言、あるいはいろいろな聖者方の予言等を研究し、この世の中をぐちゃぐちゃにし、最終戦争に対しての準備を行なっていると。最終戦争に対する準備とは何かというと、これはまさにその最終戦争をクリアしない限り、キリストの統治がないと彼らは考えているからである。これこそがまさに聖書の予言の成就であり、そして自分たちが静かにこの地球で神へ至る道を歩くことができるただ一つの道である、と彼らは考えているのである。
 この一九九○年代の終わりから二○○○年代にかけて、いったい何が起きるのかと。もうその前兆はすでに現われているが、各地での宗教戦争、そしてそこでのキリスト教徒の他の宗派に対する圧迫、および支配がどんどんどんどん強められる。例えば、スリランカはテーラヴァーダの仏教国であるとはいっているが、実際コントロールしている人たちは、キリスト教徒もいるし、また話す言語もスリランカの言葉ではなく、その支配階級は英語を話していると。
 これは聖書では、まさに「神に逆らう言葉」として表現されている。インドはどうかというと、イギリスの支配下に遭い、インドの上流階級も英語を話すと。もともと、神国、神の国と呼ばれていた日本はどうかと。これも同じように、中学校、高校と、もう今では幼稚園からそのカリキュラムがあるみたいだが、英語を話し、そして同じように神に逆らう言葉を話すことになる。これはまさにバベルの塔の完成である。
 ここでわたしが「バベルの塔」と言っているのは、何を意味しているのかというと、世界の民が同じ言語を話し、理解すると。まあ、昔は理解をしていたと。そしてバベルの塔を建設し、神に挑戦しようとしたと。そしてそのバベルの塔が、かなり高い時期に至ろうとしたと。そこで結局、そのバベルの塔を崩壊させるために、神は言語をいろいろつくり、そしてそれによって分散−−人間の魂の理解力を分散させるために、いろいろな言語をつくったといわれている。
 ではなぜ、人間が同じ言語を話してはいけないのかという問題がある。これは同じ言語を話すことにより、共通の理解を行なうわけだが、その理解はあくまでも煩悩的な理解にすぎず、というのはエゴというものを本質的に個々は有しているから、そのエゴにおいては自分の利益、あるいは自分の家族の利益、自分の社会の利益、自分の国家の利益−−ここから逸脱することはない。したがって、ただ単に煩悩だけのために言語が発達し、そして共通の言語が登場すると、共通の言語が登場することにより、その煩悩はいよいよ増大され−−というのは、この人間の世界に輪廻転生している魂のほとんどは悪趣からの転生であり、天からの転生は少ないからである。それによりこの人間界はいよいよ動物化、低級霊域化するからである。したがって、それを神は分けたもうたということになっている。
 では、ここでいう神とは何かというと、旧約聖書のただ一人の神であるヤハウェなのか、あるいはヒンドゥー教ただ一人の神であるシヴァ大神なのかということになる。結論からいうと下から上は見えないから、「同じだ」と聖書でいっているとするならば、同じだと理解してもいいかもしれないし、あるいは例えば仏教的な見地に立って、「ああ、言語をコントロールしているとするならば、これこれの世界のこれこれの神だな」、あるいは、「裁きの神とするならば、これこれの世界の神だな」と理解することができる人は、そのように理解すればよろしい。
 まあ、要するに、どの神がどうしたよりも大切なことは、これからこの人間の世界がどうなり、わたしたちがどのような生き方をすることによって、それを乗り越えることができるのかという問題に対しての、わたしたちは答えを用意する必要があるのである。その答えをただ一つ与える教え、それが真理であると。
 この真理とは何かというと、これは仏教の奥深くに隠れているエッセンス、あるいはキリスト教の聖典、バイブルではなく、キリストの教えの中に書かれているエッセンス、この中で非常に共通性があるわけだが、この共通性の部分プラス、それより崇高な教え、これは仏教に隠れているわけだが、あるいはヨーガ等に隠れているわけだが、それを真理と定義すると。そして、人間の魂をとにかく進化させ、人間が人間界に生まれ変わる、あるいは意識堕落天や天界に生まれ変わるための教え、これが真理であると。
 では、この真理に対して反対の教えとは何かというと、それはまさにわたしたちを人間界以下へ転生させる教えということになる。そしてそれによって縛る意識状態、つまり人間を無智化し、縛る意識状態をマーラ、悪魔と呼んでいるのである。
 つまり、定義ははっきりしている。低い世界へ引っ張り下ろすものは、すべてはマーラであり、それから上の世界へ引っ張り上げるもの、これはすべて真理であるということになる。そしてその真理をぶら下げ、衆生済度に乗り出す魂を救世主と呼ぶと。この救世主は何かというと、これはまさにメサイアであると。
 では、このメサイアとキリストの違いは何なのか。もともとキリストとは何かというと、頭に油を注がれた者、という意味がある。「おやおや」と君たちは考えるかもしれない。頭に油が注がれた者といったら、それはまさに武人潅頂王ではないかと。そしてその武人潅頂王がしっかり戒誓行を行ない、そして輪宝が現われると、それは転輪聖王ではないかと。まさにそのとおりである。つまり、ここでキリスト教とそれから仏教の共通性が出てくることになる。
 ところで、次の問題点が生じる。この転輪聖王に対する認識が南伝仏教と北伝仏教は違うぞと。南伝仏教においては転輪聖王は悪趣をまだ捨断していないから、動物界へ転生することもあるし、低級霊域へ転生することもあるし、あるいは地獄へ転生することもあると。しかし、北伝仏教においては仏陀と同じ、つまり転輪聖王と仏陀は同格として扱われると。
 これはいったいどのように違うのかと。これはまさに転輪聖王の定義を理解すれば、よくわかることである。つまり、転輪聖王は、動物界・低級霊域・地獄へ生まれ変わることがある。「生まれ変わる」ではなくて、「生まれ変わることがある」。ということは、転輪聖王の中でも最終段階に至る、つまり法則をしっかり具足している魂である転輪聖王は生まれ変わらないということになる。つまり単なる可能を南伝仏教では表わしているわけであり、決定ではないということである。したがって、北伝仏教の方が狭義、つまり狭い範囲におけるキリスト、転輪聖王の定義を表わし、南伝仏教の方が広義、つまり広い範囲の転輪聖王の定義をしていると理解するならば、この二つの矛盾というものは生じないことになる。
 つまり、仏陀と同格、あるいは仏陀に非常に近い状態の魂が転輪聖王になることを北伝は示し、南伝ではその前の段階において法則を土台とした魂が、この地上を統治すること、しかしまだ完全に煩悩が切れておらず、煩悩を有し、それによって三悪趣へ至るかもしれない魂までも転輪聖王として定義しているのである。
 このように、言葉というものは非常に厳密にとらえないと、わたしたちの修行の妨げとなる。そして、だいたい多くの信徒の悩み・質問というのは、この言葉によって理解ができなくなっていると思われる。わたしは必ずわからない単語があると、『広辞苑』『広辞林』『大辞林』といった個々の辞書を引き、そしてその言葉がどのように定義されているかを確認する。なぜならば、わたしがあなた方に法則を説くとき、わたしは二つの媒体によって説くしかないからである。一つは、“ヴァイブレーション”と呼ばれる、これは心対心のつながり。それからもう一つは今言った“言葉”である。したがって、いかに言葉を厳密に定義し、話さなければ、逆にわたし自体の不徳となる。
 人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死を避けることはできない。そして、真理の第一歩は証智、つまり、ありのままに現象を見つめる力なのである。しかし例えば、あなた方もそうだし、あなた方の周りの魂もこの証智がすでにできていない。例えば、「人間は死ぬ」と言われて、「ああ、そうね」と言う。「じゃあ、死の準備、あるいは死後の準備をしていますか」と言うと、「そんなもの知るわけないじゃない」。ちょうどこれはまさにアリとキリギリスの話によく似ている。
 賢ければ、わずか、例えば、おととい大山倍達という極真会の空手の偉大な先生が亡くなったわけだが、彼も例えば牛の角を折り、そして七十数キロという体重で百メーター十秒台で走ったという偉大な武術家なわけだが、結局七十歳で癌で死んでしまったと。
 こういう例は人間は必ず死ぬものである。したがって、その準備をしなければならない。どんなに生きたとしても八十、九十が関の山だと。そしてその準備のためにはこの人生は短いんだと。そして、その準備ができたかどうかは、わたしたちの生活においていろいろかたちが現われてくるんだと。その現われてくるかたちをしっかりと理解する必要があるんだと。
 例えば、死ぬ前に「食いたい食いたい」と言って死んだら低級霊域へ落ちるし、例えば薬によって全く昏睡状態で死んだら動物界へ転生することは間違いないし、体全体に痛みを発し、「痛いよ痛いよ、苦しいよ」と言って死んだら地獄へ転生するし、例えば「わたしの愛する人はどうなっているの」と言って死んでいったら人間界へ転生すると。
 このようなかたちでしっかり、どの世界へ転生するかは、その死ぬ寸前に現われるのである。したがってあなた方は、それらのすべての感覚・感情・イメージ・意志、あるいは経験の構成等を捨断し、そして自分が生きなければならないこれからの人生をしっかり最高の道として使ってほしいと思う。
 そうすると、こういう信徒もいるかもしれない。「わたしは現実的によくなりたいんだ」と。それはそのとおりだ。現実的によくなる、もし現実的によくなっていくとするならば−−法則を実践して−−それはすでにあなた方が今の自分から脱皮し、高い世界へ至る一歩を踏み出したことになる。
 それは昨日の群馬からの説法でも言ったとおり、例えば女性にモテモテになるというのは愛欲神の世界へ至る道程で必要な行程だし、例えば非常に理知的になるというのは意識堕落天へ至るためのプロセスだし、例えば逆に身体が絶えず歓喜に包まれるというのは神聖世界へ至るプロセスであると。したがって、このような現象が現われないで、あなた方が意識堕落天や天界やあるいは神聖世界へ生まれ変わることは不可能なのである。
 したがって、あなた方が一つ一つの法則を確実に自分のものにし、そして自分のものにした法則が、先程述べたような現象を起こす、起こせるように努力してもらいたいと思います。いいね。
(一同)はい。



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