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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.54〜P.59)

第七話(一九八九年四月二十九日 富士山総本部)

 今、君たちが実践している修行、これは、ある人は大乗の修行であり、ある人は秘密金剛乗、タントラの修行であると。もちろん、小乗の上に大乗が乗っかるわけだから、君たちのベースとなってるものは、当然、独覚の修行、辟支仏になるための修行、そして多くの講話を開き、君たちの心のデータというものを蓄える多聞、この二つがまずベースとなると。そして、四つの無量心を背景として、心から奉仕活動に至ると。
 今日は一つ、その中で特に大切な大乗の功徳について話そうと考える。はい、一緒に考えようね。ここに奉仕活動を一生懸命行なっている者がいたと。ま、オウムでワークといわれてることだ。この人は心の中では否定的な想念を持ち、そして口においても否定的な言葉を発していると。しかしワークは一生懸命行なっているとしようと。君たちはこの人は、どのような功徳を積んだことになると思うか。どうだ。ん? 身の行ないの功徳。
 この人は、どのような、ではね、その功徳の返りがあると思うか。果報があると思うか。どうだ。サラスヴァティーどうだ。−−アポロン、どうだ。
 身の功徳というものは、何に対して影響があると思うか。−−身の功徳というものは、色に対して影響を施すね、一般的には。だから、身の功徳を積んだ者は、例えば来世において美しい顔形で生まれるだとか、あるいは食べ物に困らないだとか、あるいはその人に仕える部下がよく働くといった功徳を得ることができると。
 では、この身の功徳を積んだ人は解脱をすると思うかしないと思うか、どうだ。−−なぜしないと思うか。
 マンジュシュリー、なぜだ。
(マンジュシュリー大師)−−  身の功徳で解脱しないと、大師が言ったわけだけど、なぜしないと思うか。−−これは正しい。
(シッシャ)−−。
 よし、いいだろうまあ。身の功徳というものは、先程言ったとおり現象界に対して対応していると。色に対応していると。よって、例えば食べ物が豊富だとか、あるいは仕え手がよく仕えてくれるだとか、あるいはいい家に住めるだとか、そういうものに変化して功徳が返ってくるわけだ。
 では次にだ。ここに修行者がいて、この修行者は口清く、行為も清らかであると。しかし、心の中は絶えず否定的な想念、あるいは現世的な想念を持っていたとしよう。この修行者はどのような恩恵を受け、あるいは解脱に対してはどのような結果を招くことになるだろうか。どうだ。アポロン、どうだ。−−マンジュシュリーはどうだ。−−カッサパはどうだ。
(マハーカッサパ大師)−−。
 そうだね、他人から優しく、優しい言葉をかけられると。静かな環境であると。しかし、周りの人は心に毒を持っているかもしれないと。そして豊かな生活であると。これは、現代の例えばね、徳があって社長になっていってる人たちがそのパターンじゃないかと思うね。部下はよく仕え、そしてその長に対しては丁寧な言葉を使うと。しかし心はいつかは蹴落としてやるぞと。あるいは心は否定的想念に支配されていると。そのようなかたちになると。ということはだ、解脱はどうだ。
 解脱の本質というものは何かというと、心から解脱することなんだね。心から何が解脱するんだといったら、真我が解脱することなんだ。では、心から真我が解脱するというのはいったい何かというと、それは心と真我とを結びつけているプラーナをね、ちょうどここにミルクがあって、ミルクをかき混ぜたらどうなる、どんどんかき混ぜていったら。マンジュシュリー、どうなるか。
(マンジュシュリー大師)−−。
 全部がバターになるか。−−ね。バターと水とに分けるようなもんなんだね。真我と心とを分ける作業、それをミルクの状態にしてるのはプラーナなんだよ。ということは、身の行ない、口の行ないだけではなく、心を絶えず浄化すると。だから、修行の根本的なものの一つには布薩があると。布薩っていうのはザンゲだね、要するに。そして、心から供養する瞑想があると。
 よってだ。君たちがワークのとき、もし心・口・身体、この三つを絶えず供養し、そして浄化するような行動をとるならば、君たちの解脱は早いといえる。
 ではだ、シッシャ諸君に聞こう。ここに入りたてのシッシャがいたと。このシッシャは信徒としてもそんな長くないと。教学もそんなに進んでないと。しかし、オウム真理教のシッシャ、なんとなくかっこいいなと思って入ってきたと。こういう人に対してはどのような対応をすればいいか。どうだ。カッチャーヤナどうだ。−−
 どのようにしたら磨くことができると思うか。どのようにしたら磨かせることができると思うか。ヴァンギーサ、パタンジャリ、どうだ。
 心を磨くための材料、それはデータだね。どのようにしたら心を磨くことができるかというデータ。だからそのためには、あなた方のまず第一の修行は多聞であると。できるだけ多くの説法を聴きなさいよと。そして、例えば真理に対して疑問があるときは、疑問というのは、「このように言われているけどね、その真の意味はいったいどういうことなんでしょうか」と、「これはこのように書かれているけども、真はいったいどういう意味なんでしょうか」ということを聞きなさいよと。そして、わたしにわかることだったら当然それはお答えしようと。
 これを、先輩のシッシャ、あるいは大師が指導するならば、その新人シッシャは少しずつ真理というものを背景に心を見つめるようになるから、どうだ、心の否定的要因というものはどうなるか。−−当然消えていくよね。ところがだ、ここに無智のシッシャがいたと。先輩シッシャがいたと。この先輩シッシャがあとから入ってきたシッシャの現世的な話、あるいは無智の話、あるいは否定的な話に乗っかって、「実はわたしもそう思ってるんだよ」と、「わたしも苦しんでるんだよ」と、「わたしもつらいんだよ」と、「わたしもわからないんだよ」と、このような状態になったらどうなると思うか。−−悪い連鎖反応が起き、無智が増大されると。どうだ。そしてそれが今のオウムだとわたしは考えてるんだよ。
 真理を根本としなければならない。真理を依処としなければならない。そのためには、真理をたくさん学ぶこと、理解すること、実践すること、そして宣布することか必要なんだよ。
 もう一度言うよ。まずたくさん聴きなさいと。次はそれをたくさん学びなさいと。そしてそれを実践しなさいと。そしてそれを宣布しなさいと。そして君たちが最高の英雄であることを理解しなければならない。
 人間は徳を積んだらどうなるかと。まず四天王衆天に生まれ変わると。次は三十三天に生まれ変わると。夜摩天に生まれ変わると。そして転輪聖王として生まれ変わると。そして最終的にはだよ、君たちと同じような真理の実践者、真実の修行者として生まれ変わると。
 もしそれが理解できるならば、現代、ほとんどが三悪趣であると。ほとんどは地獄・餓鬼・動物であると。
 それを考えると、「あ、また一つ、地獄・餓鬼・動物のカルマを持っている者が入ってきた」と、そしてこの地獄・餓鬼・動物のカルマを持っている人の内側には、光り輝くダイヤモンドのような解脱できるカルマの持ち主が入ってきたと。「わたしはこの友をね、地獄や餓鬼や動物のけがれから守ってあげよう」と。「わたしはこの友を地獄・餓鬼・動物の苦しみから解放してあげよう」と。「わたしは先輩であり、多聞であり、多聞を理解する者であり、多聞を実践する者であり、多聞を宣布する者だからだ」と。
 もしあなた方がそう考えて実践するならば、無智から解放され、素晴らしい方向に真理は向かうだろう。しかし例えば、綺語を発し、両舌を発し、悪口を発し、心には貧りの念を持ち、嫌悪の念を持ち、そして無智を喜ぶと。もし先に修行してる者が、先輩方がね、あるいは大師がそのような愚鈍な、魔に負けた心の働きに支配されるならば、この末法の世を正法の世に切り換えることはできないだろう。
 それができるかどうかは、君たち一人一人が一日一秒をね、瞬間瞬間をいかに大切に生きるかだ。ここに真理があると。ここに真理の法があると。それを学ぶと。そして実践すると。そして宣布すると。そのような気持ちが君たちの中に存在してるかどうかだ。
 そして、それこそが大乗の菩薩である。大乗の菩薩がこれだけの大変なカルマをしょっているということは、タントラの菩薩はいったいどの程度の大変さがそれに加わるのだろうかと。秘密金剛乗の菩薩はいったいどの程度、どれほどの、凡夫から見たら、苦難の実践があるのだろうかと。
 タントラの条件は、自己の身体、自己の言葉、自己の心というものを踏み台にして、多くの人を高い世界へ引き上げることなんだ。タントラの菩薩の心構えというものはね、日々、いつ肉体を供養しようかと。いつ言葉を供養しようかと。いつ心を供養しようかということなんだね。
 ではいったい肉体を供養するってのは理解しやすいと。しかし、言葉を供養しようってのも理解しやすいけども、しかし心を供養しようってのはなかなか理解しづらいと。要するに心には名誉欲、あるいは権力欲といった欲望があるだろうと。その欲望を意図的につぶす時期をいつにするかと。自己のそういう名誉的な心の働き、あるいは権力的な心の働きをいつ供養するかと。つまり言い方を換えれば、いつ悪者になるかということだね。身体・言葉・心、この三つをいつ供養するかと。これを日々考える、これがタントラの菩薩の生き方なんだ。
 もちろん、先程言ったそのベースには多聞、そして多聞の教えを学ぶ、記憶する、そして実践する、そして宣布するということもあるよ。しかし、それとは別の心の働きとして、いつ自己の、その煩悩性の心の働きを供養するかと。口の働きを供養するかと。
 例えば、ここに法友がいると。法友が正しくない行為をしていると。それを例えば罵ると。罵るということは悪口につながるから、これは悪業であると。しかし悪業であることはわかっていても意図的にやると。これがタントラの菩薩の生き方なんだ。つまり自己はその悪日のカルマをしょうと。しかしそれによって法友が成長するならば、あえて悪口を行なうと。悪口を行なうと。あるいはここに法友がいると。その法友が正しくない行為を行なうと。それを大師に上げると。これは一見両舌に見えると。気づかれたら、その法友は二度と口をきいてくれないかもしれないと。しかし、その法友に対して慈悲の心を持つと。これがタントラの菩薩なんだ。これを口を供養する。口を供養するというんだね。口業を供養するというんだよ。
 身体も同じだ。いつこの肉体を供養するかと。例えば国家的な弾圧が真理に対して向けられると。そのときに自己の肉体が投げ出せるかと。例えば真理を弾圧する国家にとって、真理というものは当然邪法だろうから悪人呼ばわりされるだろう。その上に身体が傷つき、あるいは生命を捨てなきゃなんないかもしれないと。それに対して平気で捨てると。これが身体を供養するタントラの道と。
 大乗はね、端もその身体を捨てることで称賛する。しかし、タントラは端も称賛しないと。しかも身体を捨てると。そしてその背景にあるものは大きな愛、大きな哀れみ、そして、すべての者が善行を積むことを誉め称える心、そしてありのままに見つめる、この四つの無量心なんた。その心の成熱のために自己を捨てる道、これがタントラだ。
 ね。そしてオウム真理教は三乗を説いている。一つは多聞、辟支、あるいは独覚といった小乗の道、一つは大乗の道、そして一つはタントラの道であると。今日この瞬間を境に、身・口・意、三つの善業を積み、そして新しく入ってきた者たちに対して、君たち先輩が正しい道を示す。これを心がけてほしい。


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