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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.77〜P.86)

第十話(一九八九年九月二十四日 世田谷道場)

 それでは始めましょう。ええ、今日はね、皆さんがこの暑い中大変な格好をしてね、真埋を学び、実践したいと考えてらっしゃるから、特別に瞑想についてね、それから戒・定・慧の定と慧について、少し専門的な話になるかもしれないけども話したいと。
 で、もちろんその戒の基本的な部分というのは何かといったら、わたしたちを幸福にしてくれる、現世的にも心を安らがせるという意味においても幸福にしてくれる方法、これが戒であると。そしてその安定を背景として、五蓋ね、−−皆さん、五蓋というのは知ってますか。瞑想するときの五つの邪魔物、五蓋。どうかな。
 まず、第一は眠気。これはオウムの場合、瞑想していて虚空三昧だといって、ある段階まではそれを肯定しているけども、実際には虚空三昧というのは暗性の状態であって、これはね、ちょうど囚人が牢獄に放り込まれている状態であるといわれています。だからこの、まず眠気、あるいは眠りというものを追放しなければならないと。
 そして次に悼挙ね。これ何かというと、興奮状態と。つまり、明日あれをしたいな、これをしたいなと、子供がちょうど遠足に行くときに、明日のことを考え興奮している状態。この状態というのはわたしたちの心を高ぶらせてくれると、だからそれを消滅しなければならないと。
 そして、疑心。この疑心というのはいったい何かといったら、ちょうど修行に入った者が疑いを持って、「本当にこの修行法でいいんだろうか」と、「この修行でわたしは幸福になれるんだろうか」と、あるいは「この修行でわたしは解脱できるんだろうか」というような疑いを持って修行している状態と。
 そして、げ慢と。げ慢というのは、「ああ、今日も修行したくないなあ」と、これ、あなた方の手を胸に当ててみたらね、お気づきになるかもしれないけども、「ああ今日はいいや」と、「明日に回そう」と、あるいは「あさってへ回そう」というような心の怠惰さ、これがわたしたちの修行の障礙であると、障害であると。
 そしてもう一つは、悪心ね。悪心とは何かといったら、要するに、他の言葉を使うなら嫌悪と。憎しみの情と。こういう心の働きがあると、心が憎しみの方向に向かっていて集中に欠けると。
 で、いったいわたしたちは基本的な修行のために何をなせばいいのかと、あるいは実践的な修行のときは何をなせばいいのかと、あるいは実践的な修行の結果として何が得られるのかと。これが戒であり、これが定であり、これが慧であるということができますと。
 ではいったい、戒にはどういう意味合いがあるんだと。例えば生き物を殺さず慈しみを持ちなさいと。これは先程言ったわたしたちのね、先程言った悪心、嫌悪というものを消滅するための修行法であると。「ああ、なるほどなあ」と、「だとするならば、瞑想修行を完成するためには当然、殺生を離れ、そしてすべての生き物を利する心が必要なんだ」と。
 では次は、心の愚鈍さは何から出てくるんだと。これは貪りから出てくると。「あ、そうか」と、「そこで出てくるのが貪ることを離れ、盗むことを離れ、そして人に施す」と。「そういう心の豊かさが、わたしたちの瞑想の修行を進めてくれるんだな」と。
 では、邪淫をしないというのは、これいったい何だと。もちろん、邪淫によって無智に覆われると。これは、この中でも性エネルギーを漏らしたりしたときの後の状態、ものが考えられないと、思考力が鈍ると、そして眠りが多くなると。この無智に陥った状態。これから離れるために不邪淫の戒があるんだと。
 そして、不妄語の実践をすることによって、嘘をつかないことの実践することによって、もちろんアストラル世界を浄化すると。それだけではなくて、言葉の力というものを持たせるようになると。すると何が起きるかというと、例えば怠惰さがなくなると。例えば興奮がなくなると。今なさなければならないこと、それがはっきりとわかり、そしてその実践をすることによって、その結果が現れてくると。
 四つの殺生、偸盗、邪淫、妄語という蓋を離れるだけで、それをなさないだけで、瞑想の準備というものが一つできるんだよと。これはね、詳しくはマハーヤーナのおそらく次の号か次の次の号に、また、あの巻頭の特集でね、戒・定・慧についての話が解説付きで載ります。これは仏陀釈迦牟尼の経典の中のもっとも必要な、もっとも重要な経典だとわたしは考えている。そしてそれについて解説も詳しくなされていますから、よく、それをお読みになって検討なさったらよろしいと。そして今日はね、経典に表われてこないことについて少し話しましょうと。
 実はね、今わたしの弟子に、出家した医者の中に中川君というのがいます。そして、まだ出家なさってらっしやらないけども、やはり癌の治療を一生懸命やってる、お医者さんの堀口さんというのがいますと。で、これとマハー・ケイマ、あるいはわたしの体験を交えながら,あなた方に少しね、アドバイスをしたいことがあると。
 それは何かというと、わたしたちの修行の目的というのは阿修羅の世界、あるいは天界、あるいはプラフマン、あるいは光音天といった世界をぶち抜いて、マハー・ニルヴァーナに入ることが修行の目的であると。そして、そのためには何が必要かというと、心の浄化、そして功徳、そして瞑想修行が必要である。いいですか。
 で、こういう人が中にいると。これはよくね、仙道の修行やってる人が、このパターンに陥りやすいんだけども、瞑想修行、特に小周天、あるいは大周天といったようなツァンダリーに似た行法をやりだすと、体の調子がおかしくなってしまったと。でもなぜ、おかしくなるかわからないと。というのは経典には、体が強くなるはずだと書かれていると。しかし、実際におかしくなってしまったと。なぜだと。
 小周天のもともとのねらいは何かというと、薬、つまり、エネルギー、純粋なエネルギーを体に回すと、つまり浸透させることにありますと。そして、その浸透させたことによって、いっそうエネルギーを強め、それをまた浸透させると、それを繰り返すと。そして、本当にエネルギッシュな、心身がね、地・水・火・風という三つの元素を超えた、強い清らかなエネルギーに満ち溢れた状態。これを指しますと。そして、その状態がデーヴァの状態であるともいわれていますと。まず、ここまでいいかな。すると、そのために必要なものはいったい何だといったら、まずエネルギーを強めることであると。そして仙道の修行ではエネルギーを強め回しますと。
 しかしだよ、このエネルギーの源は何かといったら、心の働き、あるいは他との交渉によって生じた、まだ現代の科学では検出されていないけども、確実にあるエネルギーであると。それはなぜかというと、実際に検証すると、予想された結果が出てくると。
 どういうことかと。例えば一生懸命エネルギーを回すと。そして、そのエネルギーが昇華されて、つまり浄化、清らかでない状態のエネルギーを体に回すということはどうかな、君たち。毒をわたしたちの体に回すことになると思わないか。どうですか。そして、そのエネルギー強ければ強いほど毒はわたしたちの体に浸透しませんか。わかりますか。これが小周天、大周天から起きてくる欠点なんです。
 つまり、何かというと、小周天というのは、体の周りをエネルギーをこう回すわけだけど−−ま、大周天もそうだけどもね−−回すわけだけども、それらの修行法というのはエネルギーを浄化するプロセスがないと。そして、単にエネルギーを回すだけであると。すると、そのエネルギーには毒が含まれているから、当然わたしたちの体を害するんだと。
 じゃ、例えば、オウムの信徒で功徳を積んでいるのにだよ、エネルギーを回して病気になるのはおかしいじゃないかと考えると。そりやちょっと待ってくれよと。だからわたしは先程ドクターの中川君、あるいは堀口さんの例を挙げたんだよって。
 つまり、どういうことかというと、例えば癌の末期症状に至る人のカルマというのは、いいカルマだと思いますか。悪いカルマだと思いますか。しかし、その人を救済するためにエネルギーの交換を行なうとしたら、自己の持っている風は、つまりエネルギーは濁りますか、濁りませんか。そして、その濁ったエネルギーを回すわけだよね、どうなる。当然、体は病んでくるよね。
 もちろん、強烈な瞑想をね、例えば八時間ワークして、八時間修行するとか、あるいは五時間修行するとか、あるいは、もう病院の仕事以外は、いつも功徳のことを考えてるというような状態だったならば、それも可能かもしれないと。つまり、相手からエネルギーを吸収して、それを、つまり邪気を生気に変えて回すと。これは最高だろうと。しかし現代生活っていうのはなかなか時間を与えてくれないよね。どうかな、それは。そこで病が起きてくるんだと。
 よって、釈迦牟尼が何をおっしやったかというと、まず戒、まず戒の前に三つの布施、そして戒の後に定と。定というのは何かというと、心を静め浄化していく瞑想だね、要するに。そしてその瞑想の延長上に智慧かあるんだと。で、この智慧というのは何かといったら、神通力のことですよと。そして最後に、この世にいながらにして涅槃を体現できる漏尽という神通力をつけて、それで終わりなんですよと、小乗の修行はと。
 ということは、わたしたちが本当の瞑想をやるためには何が必要だと。まずベースに布施、そして持戒、そして瞑想、そして智慧の修行ということになるわけだね。
 では、それをオウムではいったいどのような方法で考えてるんだと。これは君たちも知ってるとおり、布施に当たるもの、何かといったら、もちろん法施・安心施・財施、あとバクティといわれてる奉仕活動と、これによって心の浄化をしましょうよと、そして功徳を積みましょうよと、そして在家における五戒、殺生するなと、偸盗するなと、邪淫をするなと、妄語を話すなと、そして酒を飲むなと。これらをすべて、わたしたちが瞑想修行に入ったときの風ね、ウィンド、エネルギーをけがすんですよと。そして、強い意志の強化をし、それから修行に没頭し、そして瞑想に入り成就しましょうよと。
 ところが今、君たちが望んでるものは、もっともっと速いペースで与えられるものであるとわたしは考えます。「いやそんなこと言ったって麻原」と、「昔は人力で歩いた」と、「それが馬を使うようになり、そして馬車を使うようになり、そして自転車、あるいは自動車と、そして今は飛行機からジェット機となってるんだよ」と。「お前の言ってることは遅いよ」と。確かにそうかもしれない、もちろんそれについてはいろいろ検討しなきゃならないと。
 速く歩き過ぎている、生きることについて早く結果を求めている現代の日本人に対して、いったい何を与えたらいいんだと、どうしたらいいんだと考えた場合、当然そこではヴァジラヤーナの考え方、あるいはタントラヤーナの考え方が出てこようと。しかし、このヴァジラヤーナの考え方、タントラヤーナの考え方はもともと先程言った布施、持戒、そして瞑想、そして成就といったプロセス、この、ある程度の基礎的なトレーニングのできた人にしか与えることはできないんだよと。
 それはちょうどね、このようなものであると。ここにヘロインがあると。ヘロインって知ってるよね、みんなはね。ヘロインを打つと一時的に神秘的な体験をすると。しかしそれはわたしたちの意志の力を弱らせ、最終的には廃人にするという薬物です。しかし、この使い方には二通りあると。一つは先程言ったとおり、その不思議な体験をするために使い、廃人になっていく人もいると。しかし、ものすごい激痛に苦しんでいる人に対して使い、その激痛を和らげる効果もあると。このヘロインの善なる使い方をするのか、あるいは悪なる使い方をするのかというのは、そのヘロインを手にした人の選択によって決まると。
 修行も同じであると。善なる、例えばここに道具があったとしても、それを悪用することもできないことはないと。例えば超能力を軍事に使いたいと考え、研究している国もあると。しかし本来、神通力、超能力というものは、わたしたちを本当に幸福にするために使われるものであって、戦いのために使われるものではないと。それと同じように、まだわたしは明かしてないけども、ヴァジラヤーナの考え方、あるいはタントラヤーナの秘密の瞑想の中には、わたしたちをね、速やかにいろんな力を付けてくれるものがあると。しかし、それをもし提供するとするならば、まだ心の成熱していないあなた方に原爆を持たせるようなものであると。あなた方を破滅に至らせるようなものであると。よって、出家した弟子の中のごく少数の者に、少しづつ少しずつヴァジラヤーナの話を説いていると、あるいはタントラヤーナの瞑想法を説いてると。
 じやあ麻原と、いったいヴァジラヤーナとそれからマハーヤーナ、大乗、あるいはヒナヤーナ、小乗とはどのように違うんだと。それについて少しだけね、ここで考え方の背景にあるものの違いをお話ししましょうと。いいですか。
 ちょっと速いよね。今日は五、六、七、八と九月、五カ月ぶりの説法だから五カ月分を一気に終わらしてしまいたいと思ってるからね。だから猛スピードで話しています。もちろん、今までわたしを信じてコッコツと修行し、あるいは教学してる人は、これぐらいのスピードでも、もう麻原は何言ってるかわかったということになるだろうと。しかし、「ああ、麻原もいないし、現世を楽しもうか」といって、ゆったりと修行してた人は、なかなかついてこれないかもしれない。
 わたしは病んでるときも、あるいは元気なとき、眠ってるときも、起きてるときも、絶えず修行のこと、瞑想のこと、それから人類はどのようにしたら済度されるだろうかということを考えています。ですから、たとえわたしが死にかかっていようが、わたしの心というものは、あなた方に次はどのような法を説き、喜んでもらおうかなと、そして高い世界へ入っていただくように、どのように話そうかなということを絶えず思索しています。そして、これから話す内容がその中の一つであると。これはヴァジラヤーナの考え方ですから、あなた方の中には納得できないものもあるかもしれないけど、それについてはその前のヒナヤーナ、マハーヤーナの教学をよく行なって理解するようにしてください。
 例えばここにだよ、Aさんという人がいたと。いいですか。このAさんは生まれて今まで功徳を積んでいたので、このままだと天界へ生まれ変わりますと。いいですか、ここまでは。じゃあ次の条件ね。ところが、このAさんには慢が生じてきて、この後、悪業を積み、そして寿命尽きるころには、地獄に落ちるほどの悪業を積んで死んでしまうだろうと。いいですか。こういう条件があったとしましょうと。
 つまり、ここで出てくるのは天眼、来世を見つめる力、あるいは宿命、前生の力、あるいは漏尽、相手のカルマを完全に見つめる力といったような、いろんな神通力の要素がありますよと。いいですか。
 じゃ次にだ。このAさんを、ここに成就者がいたとして、殺したと。この人はどこへ生まれ変わりますか。天界へ生まれ変わる、そのとおりだね。しかし、このAさんを殺したという事実をだよ、他の人たちが見たならば、人間界の人たちが見たならばね、これは単なる殺人と。いいかな。そして、もしだよ、このときにAさんは死に、そして天界へ行き、そのときに偉大なる救世主が天界にいたと。そして、その天界にいた救世主が、その人に真理を説き明かし、永遠の不死の生命を得ることができたとしましょう、Aさんが。いいですか。このときに殺した成就者は何のカルマを積んだことになりますか。
 すべてを知っていて、生かしておくと悪業を積み、地獄へ落ちてしまうと。ここで例えば、生命を絶たせた方いいんだと考え、ポワさせたと。この人はいったい何のカルマを積んだことになりますか。殺生ですかと、それとも高い世界へ生まれ変わらせるために善行を積んだことになりますかと。ということになるわけだよね。でもだよ、客観的に見るならば、これは殺生です。客観というのは人間的な客観的な見方をするならば。
 しかし、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポワです。そして、智慧ある人は−−ここで大切なのは智慧なんだよ。智慧というのは−−わたし先程何て言った?−−神通力と言ったよね。智慧ある人がこの現象を見るならば、この殺された人、殺した人、共に利益を得たと見ます。OKかな、これは。ところが智慧のない人、凡夫の状態でこれを見たならば、「あの人は殺人者」と見ます。どうかな、これは。
 じゃあだよ、ヒナヤーナ、小乗の修行をしてる人が、殺すなかれの修行をしてる人がだよ、例えばここにヴァジラヤーナのグルがいて、殺したとしましょうと。これはどうですか。この人は殺人を起こしたというふうに見ますか。この人は大罪を起こしたというふうに見ますか。それとも功徳を積んだというふうに見ますか。そう、大罪を起こしたと見るよね。というのは、まだヒナヤーナではその教えがないから。つまり、現象に対して、何が功徳になり、何が悪業になるかというと、それは心の働き、それだけではなくて、正ししくものを見つめる力なんですよと、智慧なんですよと、神通力なんですよということなんだよ。
 じゃ、はい、もう一つ例を挙げようと。ここにAさんがいたと。いいですか。この人は、今は、今死ぬならば地獄へ落ちるかもしれないと。いいかな。しかし、この人はこれから先、功徳を積んで、最終的には天界へ生まれ変わるカルマがあったんだとしましょうと。ここでまだ完成をしていない修行者がいたと。で、相手の人生を見誤ったと、今、ここで殺せばこの人は天界へ生まれ変わると。いいですか。そして殺したとしましょう。で、そのときの、その修行者の心は、この人はこれで天界へ生まれ変わるんだと思って殺したと。
 しかし、この人はどこへ行きますか?−−だとするならば、この殺した修行者は功徳を積んだことになりますか。悪業を積んだことになりますか。しかし、心の働きは相手を殺そうと思って殺していますか。殺そうと思ってないで殺していますか。思ってないで殺してるよね。さあ、ということは何かというと、単に心の働きだけで功徳になるものでもないと。
 どうやら本当の功徳になるということは、ものを正しく見つめる力、その正しさというのは三世を見つめる力を背景として、正しく見つめる力プラス心の働きなんだなと。そして、心というものを背景に修行を進めていくのがタントラヤーナ、あるいはヴァジラヤーナの教えなんなんです。
 でもだよ。聞いて何となく納得できるだろうけど、君たちにおいてね、その理解できない部分が出てくるよね。それはなぜかというと。今、この人を殺したら、どの世界へ生まれ変われんだと。そしてその世界にはだれが住んでるんだと。これが理解できてなければ、このヴァジラヤーナの実践はでさますか、できませんか。ということなんだよ。だから、これは大変に速い功徳の積み方である、でしょ。
 ていうのは、ここにいる人を、今、人間界の低次元から天界へ上げると。しかも、そこには偉大な救世主がいて、その人と縁があって、その天界へ行った人は永遠不死、マハー・ニルヴァーナに入ることができるとしましょうと、そこに一人送り込んだわけだから、大変な功徳を積んだことにならないですか。どうですか。
 だから、そういう偉大な功徳の積み方、これができるのがヴァジラヤーナであると、あるいはタントラヤーナであると考えてください。しかしだよ、それは最後にあなた方がなす修行であると、今は何をなさなきゃならないかな。修行としては。まず、布施、そして持戒、そうだね、そして瞑想、そうだね。こういう布施、持戒、瞑想をなして初めて、次のステージの大乗の意味合いがわかるようになってきます。つまり大乗の真の意味合いというのは実践、小乗の実践をなして初めてわかるんだよということを理解しなければならない。
 では、いったい布施には何がありますかと。何がありますか。じゃあ、財施にはどういう財施がありますか。真理に対する財施と、貧しい人に対する財施と、公共のものに対する財施があると。そうですね。よく教学してます。じゃあ次は、その財施の真の意味合いは何ですかと。わたしたちをどの世界へ導いてくれるんですかと。貪りが当然、消えるから、餓鬼の世界を消滅すると。あるいは真理のために得たものを利用するから、無智のカルマが消滅すると。そして天界へ生まれ変わると。財施、それから法施、安心施の実践によって、天界へ生まれ変わると。もちろん持戒の実践も必要ですよと。
 じゃあ麻原と、なぜお前はそういう真埋を体現してると言いながら−−さあいよいよ本題です−−政治に出てくるんだと。なぜお前は法によって救済をしないんだと。これにはいろいろと意味があると。しかし、もっともあなた方にわかりやすい−−これは次の次の号の『マハーヤーナ』のインタビューで出てくると思うけども−−話をしなければならない。
 それは、わたしはあなた方と約束をしてるよね。何かというと、この日本を、そして世界を、生きてる限りシャンバラ化しようじやないかと。どうですか、これは。そして、シャンバラ化というのは本当の意味での福祉の充実した世界と、そうじゃないかな。本当の意味での教育の充実した世界、そうじゃないかな。本当の意味での豊かな生活、つまりわたしたちが日々生きていて、例えば病気になったときは、その病気からね、カルマの法則を学び、脱却できると。例えば経済的に困ることもないと。そういう社会じゃないかな、どうかな。そして真理を実践していても、堂々と真理が実践できると。そういう社会じゃないですか。どうですか。
 で、もしだよ、その社会をつくろうとしたならば、今の、要するにロッキード事件、あるいは、リクルート事件、そうだね。このような要するに餓鬼のカルマを持った政治家たちにとって、わたしたちが今からなしていこうと思っていることが受け入れられるだろうかと。どうですか?
 例えばね、真理学園一つつくるにも、こういう言い方をしてます。これは静岡県の話です。「学校はね、人口がどんどん減っていってるから経済困難なんですよ」と、「それを考えてくださいよ」と。どうかな、みんな。経済困難だったならば正しい教え、これを背景とした学園がつくることができないのかな。どうですか。それはぶち破るしかないでしょう、どうですか?
 例えばね、これは報告でもあるけども、八月の二十九日に宗教法人の認証が下りました。ですから今、オウム真理教は宗教法人オウム真理教です。でね、それに対して都庁が言ったことは、何と言ったかと。「都庁もなかなか頑張るでしょう」と。「都庁もなかなか頑張るでしょう」とは、どういう意味かわかりますか。あなた方は。認証しない方向では「なかなか頑張るでしょう」と言ったわけです。
 このような問題はだよ、例えば瞑想してるだけで解決できるかな、どうですか。石ころを拾うためには手が必要なんです。ご飯を食べるためには、同じように手が必要なんですと。歩くためには足が必要なんですと。物を見るためには目が必要なんですと。それと同じように救済にはいろんなかたちがありますと。そして心をわたしたちが浄化し、高い世界へ生まれ変わるためには、もちろん瞑想修行が必要です。功徳を積むことが必要です。しかし、外側を固めるためには、例えば経済が必要なんだと、例えば政治が必要なんだと、これがわたしの考え方です。


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