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●ヴァジラヤーナコース● 教学システム教本(P.98〜P.102)

第十三話(一九九○年三月五日 富士山総本部)

 今日の話の本題は、ヒナヤーナ、これについて詳しく、マハーヤーナ、これについて詳しく、タントラヤーナ、これについて詳しく、ヴァジラヤーナ、これについて詳しく、皆さんに話したいと考えています。
 まず、ヒナヤーナで十分ではないか。すべての現象から離れ、そして心を静め切ると。静め切った状態、透明になった状態、これで十分ではないかと、こう考える人がいるかもしれない。この状態を、刺激の加わらない水の平らな状態というふうに考えたらいい。つまり、どういうことかというと、ここに瓶でも、あるいは「かめ」でもいいからそういうものがあって、その中に水が満ちているとしよう。そして今までは、それを揺らされていた。ところが、その揺らされる状況から離れ、そして瓶を静止した。すると、今まで揺れていた瓶の中の水も、自然と少しずつ安定し、そしてとどまる。そして、完全に平らな状態になる。静まり切った状態になる。これがヒナヤーナにおける涅槃である。
 まず、ここで考えなければならないことが一つある。それは、このヒナヤーナの涅槃、これにもう一度強烈な刺激を加えたらどうなるだろうかということである。当然、刺激の加わらないとき、これは安定しているだろう。しかし、自分からは干渉しなくても、周りから干渉されたとき、当然その心は乱れてしまう。そして、その心の乱れ、これがないようにしなければならないのではないかと考える。
 よく、五蘊無我−−色は無常なり、受は無常なり、想は無常なり、行は無常なり、そして意識の識も無常なりという。この五蘊は、無常であるがゆえに苦である。苦であるがゆえに、此は我がものであらず、我がものにあらず。そして、遠離・離貪し解脱する。そして、釈迦牟尼の未席の弟子たちは、ほとんど神秘的な経験をすることなく、心を静め、寂静の状態に入ったといわれている。
 では、なぜ釈迦牟尼が、そうではなく宿命通を経験する、あるいはアストラル経験を豊富に行なうことにより解脱する道、これを説いたのかという問題か出てこよう。つまり、釈迦牟尼の解脱と、それから単純にこの五蘊から離れ、心が寂静になる解脱とでは、大きな違いがあるということである。
 では次に、マハーヤーナの解脱を検討しよう。マハーヤーナの解脱は、今わたしたちが瞑想上、あるいはアストラル、あるいは宿命通というプロセスをたどり経験していること、これらを無視し、そしてこの現実生活において経験しようとする。そして、それこそ素晴らしいんだと考える。
 君たちはどう考えるだろうか、それは君たちは、自分たちの○歳時のことを完全に覚えているだろうか。自分たちの一歳、二歳、三歳、四歳、五歳、六歳のころの状態を完全に覚えているだろうか。あるいは小学校、あるいは中学校のころのことを完全に覚えているだろうか。つまり、この大乗の経験というものの背景には、無智というものがもともと取り払われていなければ意味をなさないということになる。つまり経験の積み重ね、これが本当の意味で積み重ねられるならば、心はそれと対比し、そして成熟に向かうだろう。しかし、経験し、その経験した片っぱしから忘れてしまう。こういう心の愚鈍な状態、無智な状態であるならば、その経験というものは、全く無意味で、全く役に立たない、全く人の心を成長させない状態になるだろう。そして凡夫は、その経験こそ素晴らしいんだと考える。
 しかし修行が進み、クンダリニー・ヨーガの成就を本当の意味でし、完成に向かうと、アストラル・トリップ、あるいは宿命通といった体験が豊富に起こる。そして、その豊富な体験は忘れることがない。なぜならば、短い期間に集中して起こるからである。そして、そういう経験をすることそのものが、サットヴァの光により自分自身の過去、そしてその過去よりも前の生、あるいは未来の生、あるいは今自分が経験している世界以外の経験を、同時にさせてくれるからである。そして、これを本当の意味でなすことができるならば、すべては無常であると、そしてすべては必ず変化する、楽の裏には苦が存在する、あるいは今は幸福でも必ず苦しみが存在する、あるいは今は豊かでも過去においてこれだけ惨めな生活をしていた、あるいは今は豊かでも未来において苦しみが生じる、こういうことを如実に知る。つまり、完壁なる三昧を体得する。
 そして、その三昧により如実に智見する。すべてを知る。そうすることにより、いっさいの現象に対して、たとえそこで行為というものが存在しても、その行為に対し、心が全く乗らない状態が出てくる。これを遠離、そしてその行為に対し貪る、あるいはその行為に対し執着するということがなくなる、これを離貪という。そして、完全に遠離・離貪するならば、心の本性というものはすべての現象から切り離される。そして、これはヴァジラヤーナの本質的な修行でもあるといえよう。
 あるいは、ヒナヤーナにおいても、ヒナヤーナの修行をしながら徹底的に心を静め、そして修行形態そのものはヒナヤーナでありながら、生活形態そのものはこの現世にどっぶりつかる。そういうことのできる人は、同じように経験をすることができる。しかし、まずわたしの今まで見た弟子たちの中で、これをこなすことのできた者は皆無だ。ということは、本質的な解脱に到達するためには、すべての感覚を、あるいはすべての経験を完全にし尽くし、超越し、解脱する以外にない。その経験は、この現世的なものではないということだ。
 そして、「ヴァジラヤーナのザンゲ」を真剣に受け、精神を集中していると、必ず心三味に入る。心の三昧に入る。そしてまず、そこで何を経験するか。感覚、この感覚が本来は幻影であることに気づく。つまり痛み、例えば痺れ、こういうものが遠のいていく。次に、心にいろいろ思い浮かぶ表象の現象が生じる。そして、その表象の現象を乗り越えると、次にいろいろなヴィジョン、あるいはいろいろな思いが生じてくる。これは、私はこれをやりたい、あれをやりたい、それをやりたいというような思いである。そして、それを通過すると、次は単にデータだけ、それは光の中にデータが存在する形で生じてくる。そして、五蘊から解放される。
 そして、そのデータをぶち抜いたとき、本当の意味での三昧に没入することができる。もちろん、一度の三昧、二度の三味では、すべてを経験することはできない。一度、二度、三度、四度と心三昧に何度も何度も入るうちに、どちら側の世界が真実であるか気づくことになる。そしてそのときには、すべての外的条件から解放された心の状態が現出する。
 では、タントラヤーナというのは、いったいいかなるものであろうか。もともと、人間の煩悩というものは存在している。そして、この煩悩を肯定し、この煩悩を生かし、そして本来人間の愚鈍さ、修行に向かわない心を修行に向かわせる。これが、もともとタントラヤーナの意味合いである。そして、煩悩を出し、出てきた煩悩をマントラによって、あるいは特殊な呼吸法によって引き上げる。これが、タントラヤーナの修行の本質である。
 今、一般的にいわれているタントラと、そして、本当の意味でのタントラとの間には大きなずれがある。それは何かというと、完全にエネルギーを昇華できるかできないかということが、まず第一のポイントである。もし、できないような状態であるならば、それは単なる快楽主義である、単なる煩悩主義であるということができる。それは例えば、次のような比喩で表現することができよう。
 ここに食い物があったと。この食い物を「飽きるまで食べろ」と言われたと。そして、本当に飽きるまで、そこに苦が存在していても、本当に飽きるまで食べることができる心の状態をつくる。そして、それをなさせることのできるグルが存在する。ということは、そこに帰依の心というものが存在する。つまり、食べることにより、気というものは、エネルギーというものは下がったかのように見える。しかし、帰依というものによりエネルギーは引き上げられる。つまりそれは、心がグルと合一したからである。
 同じように、ここに食い物があり、それをひたすら食べる。そして、満腹になって、「ああ、食べた、食べた」と思う。しかし、それは帰依心がない状態であったとしよう。この人は、単にサマーナ気を消耗しただけで、何のメリットも得られなかったことになろう。それは、例えば左道タントラについても同じことがいえよう。そして、このタントラの最終地点は、煩悩というものを肯定しているわけだから、心の絶対的寂静に引き上げられることはあり得ない。なぜならば、ここに煩悩があり、その煩悩というものを満足させているうち、エネルギーを昇華させながら満足させているうちはそれでいい。そして、エネルギーが完全に上昇された状態、この状態、これは確かに涅槃の状態ではあるが、それまで培ってきた経験というカルマを残しているかたちになる。よって、そのカルマを切る別の修行法がない限り、最終の地点に立つことはできない。
 わたしたちは、わたしたちの持っているもの、このすべてから解放されなければならない。例えばそれは、色、肉体において、受、感覚において、想、イメージにおいて、行、意志において、識、これは潜在的なデー夕において、解放されなければならない。そして、それを解放するある程度の段階までは、これはタントリックの道でも到達することができるといえよう。
 つまり、最も素晴らしい道、それは金剛の心、いっさいの現象から切り離された心をつくり上げることである。そして、そのためにヴァジラヤーナが存在している。  わたしはいろいろなことを経験した。いろいろなことを知っている。そして、その法の一部を君たちに話している、説いている。しかしその法の中には、意図的にねじ曲げられて説いている法もある。例えば、ここまで出してしまうと現代の人は受け入れないだろうと、だからこれはここで止めておこうと。例えばその例が、地獄へ至る道であると。三悪趣へ至る道であると。
 本来仏典にもあるように、わたしは経験から、この三悪趣に至る道というもの、これが最も厳しく、そして今のサマナの中でも、なかなか乗り越えられない道であることをよく知っている。しかし、それをあまりにも前面に出すならば、単なる「脅しの宗教」になってしまう。よってわたしは、今まであまりこの三悪趣について説かなかった。  あるいは、ニルヴァーナの状態についても、このニルヴァーナの状態を君たちに話すと、その低いニルヴァーナに安住し、そして結局、三つのグナの干渉により、また再生を繰り返さなければならないから、その内容についても曖昧に話していた。
 しかし、わたしたちにはもうあまり時間はない。わたしにも、もうあまり時間はない。よって今日の、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナの法の内容と同じように、少しずつ、そしてそれを積み上げるかたちで君たちに提供したいと考えている。これはわたしの経験であって、それを単に、経典に照らし合わせて話しているにすぎない。これはわたしの見たものであって、それを単に経典に照らし合わせて話しているにすぎない。


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