78゜North, Svalbard
English short version
スバルバール (スピッツベルゲン) 旅行記
Longyearbyen (北緯 78゜12', 東経15゜40')
- Longyearbyen への飛行
- Longyearbyen に降り立つ
- Radison SAS Polar Hotel ('99 当時は Svalbard Polar Hotel)
- 部屋の見取り図 〜妹尾河童さん風に天井から見た鳥瞰図〜
- Restaurant Nansen (食堂)
- 街の中を歩く
- 第3炭坑見学
- 日本の技術との比較 (石炭火力発電所, 石炭採掘, 石炭の種類)
石炭をわずかに生産するだけの島に、ノルウェーもロシアもどのくらい力を入れてるか、権益維持のために払ってる努力を日本も見習え。
それでも、石炭を売るなら、安くて高品質でなくてはならない。技術から考えたら少しは努力とその世間での評価が分かりはしないか、と思ったけど、まだとても。内容見直し中です。
- Longyearbyen の次の発電所計画を考える。
風力だけではとても。ごみで発電する計画もあるみたいですが06, 07H/Svalbard参照<-->
- 飯塚浩二「北緯七十九度」 を読む
July, '33 に地理学者 (比較文化論の展開でも知られる。後に東京大学教授) が上陸した記録から当時を考える
- Svalbard Museum
Museum は '05 Dec. に UNIS の建物で新装開店しました。本頁では すべて 旧建物時のものです
- icepeople紙で見る現地最新情報 (抄録)
低迷している石炭価格と採掘量だが、福島第一原発問題でどちらも急上昇する可能性あり?
Barentsburg 訪問 (北緯 78゜04', 東経14゜15')
- Barentsburg 上陸。【旧ソ連時代の面影を残す街】
- Pomor Museum
Museum 内のパネル
- Hotel Barentsburg
- Longyearbyen から Barentsburg への航海
- Esmarkbreen (Esmark Glacier) を見物して Longyearbyen に帰港。
- '06年 1月、新しくガス火力発電所の建設計画を発表しました。旧来の石炭火力発電所の代替のようです。
- Barentsburg は '08年 4月17日の鉱山火災 (死者 1名、行方不明者あり) のとき、坑道に注水したため、採掘が停止しています。'09年現在、石炭の市場価格が安いため、採掘再開のめどは立ってません。
そのかわり、魚の処理工場を建てる話などが浮上しているようです。
しかし、これはこれで、漁業権の問題で、ロシアのパトロール船が ノルウェー当局に依り、バレンツブルグ港から退去命令を受けるなど、両国間で問題になってます。
'10年4月27日にはバレンツ海の境界画定問題で、ロシア - ノルウェー政府間で基本合意に達したことが報道されてますが、Svalbard 近海での権利解釈が含まれてるかどうかは分かりません。
バレンツブルグでは '06年 10月17日にも火災が起きて住民が避難する事態が起き、環境問題への影響が心配されたことがあります。この火災は後に鎮火されましたが、Trust Arktikugol 社には問題解決能力がないことが判明して問題になりました。('11年7月現在の日本国内閣総理大臣と良い勝負だ、ってことだな)
その他
Svalbard の極めて簡単な紹介
Svalbard (スバルバール) 諸島は北極海に浮かぶ Norway 領の島々で、北緯 74゜〜 81゜に広がっています。面積は約6万3千平方キロメートル、四国と九州を合わせたよりもやや大きい広さです。
1596 年にオランダ人の Willem Barents が 諸島を訪問したことについては、確かな記録があり、彼がこの諸島の発見者ということになっています (日本では、関ヶ原の合戦が 1600年)。彼は島々をオランダ語で「尖った山々」を意味する「Spitsbergen (スピッツベルゲン)」と名付けました。この呼び名はその後、約 300年間使われてきましたが、1925 年に Norway 領となったとき、古代北欧語で「冷たい岸辺」という意味の「Svalbard」と改名されました。「Spitsbergen」という名前は、現在は、諸島中の最大の島の名前として使われています。
諸島が発見された頃は捕鯨が主要な産業でしたが、19世紀末には衰退し、20世紀初頭には全く行われなくなりました。狩猟は 18世紀からロシア人やノルウェー人によって行われ、現在でもわずかに狐等の猟が行われています。
今世紀に入って、石炭の採掘が行われるようになり、諸島の発展が始まりました。
20世紀初頭まで Svalbard はどこの国の領土でもありませんでしたが、1925 年 Svalbard 条約が結ばれて、Norway 領となりました。
この条約では、諸島に軍事基地を作らないこと、条約加盟国のすべてが平等に産業活動が出来ること等が定められています。(WWII, 冷戦中のソ連でさえ、この項目を忠実に守っていたとされています)
日本はこの条約が結ばれた当時からの加盟国ですので、産業活動が保障されています。明日から ロシア人街でラーメン屋を開いても法律上の問題はありません。また、ノルウェー人街のみならず、ロシア人街を訪問する場合でも査証は必要なく、滞在期間にも制限はありません。この島で一定期間生活することで、ノルウェー本土で合法的に滞在する資格を得る方法があります。
2010年 1月 1日現在、諸島の人口は約2,481人で、ほとんどSpitsbergen 島の炭坑の街である、Longyearbyen に住んでいます (2,052人)。同島のロシア人の炭坑町 Barentsburg では人口減少が著しく、約 400名。この他、わずかな人々が各地の基地 (Ny Alesund, Sveagruva, Hornsund 等) に分散しています。
Longyearbyen とノルウェーの炭坑街
- Longyearbyen (北緯 78゜12', 東経15゜40') は ノルウェー人の街で、大きな空港や、領事の事務所があって、諸島の行政の中心でもあります。空港には Oslo, Tromsoe からジェット機が週 5便以上就航していて (季節によって便数は異なります, 夏は Oslo からの non-stop 便あり)、お手軽に訪問できる世界最北の街と言ってよいでしょう。
人口 2,052人 (2010年1月1日現在)。在住の外国人で最も多いのはタイ人で 96名 (男 33, 女 63)。1990年台の中頃から、タイ人女性でノルウェー人男性と結婚して住みつく例が目立ち始め、徐々に増えたようです。以下、多い順に、スウェーデン人 53名, ロシア人 29名, ドイツ人 24名, デンマーク人 14名, クロアチア人 11名, フィリピン人 9名。
クロアチア人は、おそらく、祖国の動乱を避けた人たちでしょう。フィリピン人は女性ばかりなのが目立ちます。
主な産業は、ずっと石炭でしたが、'97 以降は、約 40km 離れた 炭鉱の街である Svea の石炭採掘のための前進基地、とでも表現した方が良さそうです。石炭は現在は 第7坑口で少量が採掘されているだけで、しかも、そのうちのかなりの量は、Longyearbyen の石炭火力発電所で消費されています ('01 は、Gruve 7 採掘量 6万5千t のうちの 2万5千t は発電所で消費)。
- Svea (Sveagruva) (北緯 77゜50', 東経16゜30') … 現在 ノルウェーの会社の主力炭坑。作業員は Longyearbyen から飛行機で移動してます。作業員の休暇場所, 家族の生活場所などは Longyearbyen
- Lunckefjellet (北緯 78゜00', 東経16゜30') … 2014年からノルウェーの会社が採掘開始を予定している炭坑
- Ny Alesund (北緯 78゜50', 東経11゜30') … しばしば、世界最北の町、と紹介されます。現在は研究者がいろいろな観測のために暮らしているだけです。研究者は Longyearbyen から飛行機で往復していますが、一般観光客は夏にクルーズ船で訪れるしかありません。1916 〜 1929 年には石炭採掘が行なわれており、そのときに使われた鉄道が、世界最北とされているようです。アムンゼンが飛行船「ノルゲ号」で北極横断した時の出発地 (1926年5月11日離陸, 72時間後、アラスカのテラー着陸。この間、陸地も新発見の島もないことが初めて確認された)
- ノルウェーの会社の石炭採掘量
また、もともと、Svalbard での採炭量は多くありません。例えば、日本の大牟田 (三井三池) の閉山直前 ('90) が 214万t/y であったのに対し、同年の Longyearbyen は (炭坑会社の赤字経営のせいもあるが) Gruve 3, 7 で、それぞれ、12万3千t/y, 15万6千t/y に過ぎません (Svea は試験採掘だったので 2万4千t/y)。
Svea と Longyearbyen の合算値で、2007年は 410万t/y の最高記録、2009年は 260万t/y。2010年は石炭市況の低迷と世界市場の不透明さのために 190万t/y。
Barentsburg とロシアの炭坑街
- Barentsburg (北緯 78゜04', 東経14゜15')はロシア人街。石炭採掘の町でしたが、'08年の坑道火災以降、採炭は事実上停止していて、町の経済は荒廃状態にあるとの情報。人口は、筆者訪問時 ('99) には 800 人程度だったそうですが、2010年 1月1日現在、約400人。現在は、採炭復活を試みる他、観光と科学の拠点としての再生を狙っています。ロシア政府のなりふり構わぬ方針のせいでしょう。Longyearbyen からの観光船で日帰り訪問するのがお手軽。
- Pyramiden (北緯 78゜40', 東経16゜22') もロシア人の炭坑街でしたが、'98 年 10月に石炭採掘が終了し、町は放棄されました。資源が枯渇したという理由の他に、'96年 8月 29日の Vnukovo航空機の墜落事故で搭乗していた 141人全員が死亡した影響が大きい (ほとんどが坑夫だった) とする説もあります。
現在は、ノルウェー当局の支援も得て、残存してる建物の一部を焼却処分などし、観光客を誘致し、研究者の拠点とするような準備中のようです。
ロシア領のフランツヨーゼフ島で大規模に行っている産廃撤去作業と関係あるものと推測されています。
- Grumantbyen (北緯 78゜10', 東経15゜) は 1961年に放棄されたロシアの炭坑街です (人口 1,000 人規模)。現在、ロシアは Grumantbyen への道路を Barentsburg から建設しようと試みているものの、Svalbard 政庁の反対にあって頓挫しているようです。
グリーンランドとはどっちが北にあるか
Greenland 最北の街、Siorapaluk は 北緯 77゜48', 西経 70゜58' にあって、Svalbard 諸島の各街よりも南の緯度にあります。視聴者の無知に付け込んだ TV番組 では、Siorapaluk を平然と「世界最北の村」と紹介し、視聴者の抗議の声には聞こえないふりをしました。
有益な情報
姉妹編
- Alaska 旅行記
Alaska 鉄道, 北米大陸最高峰 Mt. McKinley, 北米大陸最北端 Barrow, Chena Hot Springs でのオーロラ
- Greenland 旅行記
南の空にかかる Orion 座とそれを横切るオーロラ / ロッジでの伝統的な食事とオーロラ / 原住民の町訪問
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Last Modified : 19th Sept., 2011