張作霖の祝辞


  志賀島渡船の船着場から海岸伝いに歩くと小高い丘に蒙古塚がある。
13世紀に博多湾の暴雨風を逃れたモンゴル軍の兵隊の首をきった場所である。
昭和になり日蓮宗の僧などの企画により、この場所に蒙古供養塔が建設され、1928年盛大な 除幕式が行われた。
「蒙古供養塔」の文字は当時の内閣総理大臣・田中義一の文字である。
この式に参加したのは、福岡県知事・福岡市長・旧清王朝の人々、満蒙独立運動の黒幕・川島浪速そして蒙古の騎兵隊も加わって一千名におよんだ。


蒙古塚の台座近くにある
「張作霖の祝辞」石碑

1911年辛亥革命によって清朝が滅亡した直後から日本の一部に清朝の王族の一人である 粛親王をかついでの満蒙独立の動きがあった。
 その中心が川島浪速であり、川島芳子の養父となった人物である。
満蒙独立というのは、満州およびモンゴルを中国から分離して独立させるというもので真のねらい は満蒙における日本の権益を中国から切り離して温存しようというものであった。
 この計画の実現に大きな障害となっているのが満州の実力者張作霖であった。
この供養碑除幕式には張作霖の祝辞が寄せられている。
しかし参加予定であった蒙古のカラチン王は、突然急病を理由に参加をとりやめた。
これは日本側の軍の動きに対する蒙古側の牽制であったと考えられる。

実際に除幕式の3ヶ月後には日本人の軍人による張作霖爆殺事件が起きて、その責任をとって田中義一内閣は翌年総辞職に追い込まれた。
志賀島の蒙古塚は日本の歴史を変えた多くの人々が関わったという点から 現代史のモニュメントといえる。

金印公園

志賀島は後漢の光武帝が倭の奴国王の使者に与えた金印が発見された場所として有名である。 発見された場所には「漢倭奴国王金印発見の処」の碑がある。
この公園にはいくつかの碑があり、その中の一つは九州大学で学んだ故・郭沫若が日中友好のために刻んだものもある。江戸時代に発見された金印が「後漢書東夷伝」に記載されたものであることをはじめて指摘したのが黒田藩の陽明学者・亀井南冥である。
金印は現在福岡市美術館に保存展示してある。

蒙古塚

文永の役で逃げ送れたたったひとつの元船の兵士約220人が処刑された墓といわれるところである。 これが蒙古塚とよばれる所以である。また志賀島は弘安の役では、元軍上陸の唯一の地となった。
博多方面では、石塁のために上陸できず、志賀島から海の中道を突破しようとして大激戦となったが 、日本軍の反撃にあって失敗に終わった。

火焔塚

弘安の変に際し、高野山の僧侶が外敵退散の大祈祷をした場所と伝えられている。

志賀海神社

志賀島正面の船着場から正面の鳥居をくぐって進むと、突き当たりに志賀海神社がある。参道左側の万葉歌碑にあるとうり、志賀海神社は「志賀の皇神」とうたわれ、古くから海上守護の神として信仰された。
代々の神官は今日にいたるまで古代の海人をひきいた阿曇氏である。「あずみ」と「わだつみ」は同じ意味で海人あるいはその主長と解釈されている。志賀島を本拠とする安曇の一族は繁栄して全国にひろがり、その一部は信濃に入り安曇郡に穂高神社が鎮座する。

金印発見之処石碑

1784年2月、志賀島西南海岸の叶崎で農夫が水田の溝を修理していた時に、大きな石がでてきたので取り除くと、石の間から金印がでてきた。
その報告を受けた福岡甘棠館館長の亀井南冥は、この金印こそは「後漢書東夷伝」 にある「建武中元二年、倭の奴国奉貢朝賀す。光武、賜うに印綬を以ってす」の印綬と解釈しそれが 今日でも定説となっている。
黒田藩7代の黒田治之は1778年5月、当時町医者だった亀井南冥を自分の侍医とした。
これが後に、亀井南冥をして金印と関わらせる機縁となったのである。

亀井南冥墓所(浄満寺)

金印が発見された1774年は黒田藩9代の黒田斉隆の時であった。 その価値に気がついたのは、開校したばかりの西学問稽古所の亀井南冥であった。 亀井南冥が書いた「金印弁」には金印は後漢書の建武中元二年(57年)光武帝が下賜した印綬であることが記されている。
当時の国学の台頭もあって印字の内容は神国の日本国を侮辱しているといった意見もあり ついに金印鋳潰論まででるに及んだ。
それで亀井南冥は100両だしても金印を買うと言ったたため金印は藩内で公になってしまい、 その後、金印は福岡藩主・黒田家に保存されることになったのである。
亀井南冥は徂徠学の儒者として藩の政策を批判することが儒学者の責任であると考えていたから 藩内部には南冥に対する反感も渦巻いていたと考えられる。
藩校教授の職を失った亀井南冥は、大宰府別荘で失意の日々を過ごしたが、火災にあって焼け落ちる自宅とともに焼死したという。

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