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2002.07.15
[ひとりごと]

大麻の変性意識(12)

南方曼陀羅と大麻

 「ここに一ついいおくは、エジプト……(では)……今も多くマメルックとて恋童がある。これが客に大麻葉をくれる。昏酔剤なり。この大麻というもの飲むときは、抽象的に満足識ともいうべき識を生ず」(南方熊楠/明治36年8月20日付け土宜法竜宛て書簡)

「抽象的に満足識ともいうべき識」
 図書館でなんの気なしに手にした『南方熊楠 土宜法竜 往復書簡』のページをめくっていたら唐突に「大麻」という文字が目に飛び込んできた。しかも大麻による変性意識のことを書いているようだ。その後、この本全体に目を通したが、大麻についてふれているのは上記の短い一節だけであった。しかし熊楠がこの私的な書簡の中で、旧知の仏教者を相手に勢い余って宇宙の仕組みを解き明かすべく持論を展開したいわゆる「南方曼陀羅」と、大麻の変性意識として語られる「抽象的に満足識ともいうべき識」がどうやら関係しているらしいことが仄かに浮かび上がってきた。
 「抽象的に満足識ともいうべき識を生ず」という謎めいた記述は、熊楠が大麻を摂取した実体験から得た言葉だろうか(熊楠はエジプトには行っていないが)。すでに12〜14歳頃、中国の薬草書『本草綱目』を筆写していた熊楠が大麻の向精神作用について知らないわけがない。「識」とはものを認識する能力のことであるから、大麻によってある種の認識力が生まれるということを指摘しているはずだ。
 南方熊楠(1867〜1941)は明治から戦前の昭和にかけて博物学、民俗学、植物学といった幅広い領域に人並み外れた博覧強記の才を傾けた学者。海外遊学後、紀州熊野で生涯を送ったことから森の巨人とも、あるいは数々の逸話から奇人ともいわれた伝説的存在。今から十年近く前に出版界では熊楠ブームがあったこともあって、熊楠について書かれた書籍や雑誌記事は多岐にわたるが、わたしの知る範囲では、大麻との関係にふれているものは見あたらない。
 熊楠は紀州那智での隠遁生活中に、イギリス滞在中に知り合った真言宗僧侶の土宜法竜に長文の手紙を何通も送っている。その中で後世、「南方曼陀羅」と呼ばれる思想が語られている(その構想は別々の書簡の中でいくつか列挙されているが、ここでは最も本質的だと思われる明治36年8月8日付け書簡をとりあげる)。

 熊楠を語るとき何よりその旺盛な、というより異様なまでの収集・記録癖をあげることができる。生涯をかけて収集した膨大な数の鉱物、貝、化石、菌類、藻などの標本やスケッチ。あるいは、大英博物館に3年半通いつめ中央アジア、中東、アフリカ、アメリカなどの地誌、探険記、旅行記などを稀覯書、雑本から筆写した52冊1万ページにわたるノート「ロンドン抜書」。住まいの近くの銭湯や理髪屋で聞いたさまざまな庶民の話題をかたっぱしから記録した61冊のノート「田辺抜書」など。結局のところ、ありとあらゆる物事を我がものにしたいという嗜癖とでも言うのだろうか。そして熊楠は森羅万象、現象や物の種類を記録し、記憶する尋常ならない能力を兼ね備えていた。
 熊楠が選んだ博物学は物(動植物、鉱物、地質など)を分類する学問であったし、民俗学は事(風俗、習慣、伝承など)を調べる学問であった。南方は古今東西、過去・現在に至る一切の物事を記録して、配列し、それら全てに共通する何かを抽象化して取り出そうとした。そして抽象化した要素をある種の論理=因果関係として整理できると考えた。
 常人なら誰もこの世の森羅万象を丸ごと理解しようなどという途方もないことを考えたりしないはずだ。一体、どうすればいいのか、まるで取り付くしまもない。人の生が人生ゲームだと仮定すると、ほとんど全ての人はゲーム機に夢中になっているうちに時間(寿命)が来てしまいこの世を去っていく。ところが熊楠はゲームをしながらも、ゲーム機の構造、仕組みを手探りで探り、その設計図(南方曼陀羅)を彼なりに類推した。
 熊楠はある書簡の中で「一切智」(全てを知っている人、知ること)という言葉を使っている。それは天文学が観察により宇宙(一切)を知ろうとするのとは違う手法で、この世界(一切)を知ることにとりつかれた智だ。「全て」といっても南方が生きていたのは、時空についての科学、ビッグバン宇宙論や量子論が登場する以前の時代だったから「全て」とは因果関係のことであり、それが南方曼陀羅である。
 「一切智」とは「賢者はこのようにこの行為を如実に見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその果報とを熟知している」(『ブッダのことば――スッタニパーター』)と語ったブッダの視点を熊楠なりに論理化したものだ。それによりこの世の因果が解明できると考えていたはずだ。その論理は、歴史的な初期仏教をヒントにしていたとしても、それ以上の関係はなく、熊楠の特異な個性を全肯定したものだった。では、南方曼陀羅の核心部を引用してみよう。

 「胎蔵界大日中に金剛大日があり。その一部心が大日滅心(金剛大日中、心を去りし部分)の作用により物を生ず。物心相反応動作して事を生ず。事また力の応作によりて名として伝わる。さて力の応作が心物、心事、物名、心物心、……心名物事、事物、心名、……事物心名事、物心事、事物……心名物事事事名物心というあんばいに、いろいろの順序で心物名事の4つを組織するなり。
 例。熊楠(心)、酒(物)を見て(力)、酒に美趣(名)あることを想い出し(心)、これを飲む(事・力)。ついに酒名(名)を得。スクモムシ、気候の変(事)により催され、蝉に化し(心また物)、祖先代々の習慣により、今まで芋を食いしを止めて(力)、液(物)を吸う。ただし、代々(名)松の液をすいしが(事)、松なき場処に遭うて(力・物の変)、止むを得ず柏の液をすう(事の変にして名の変の起こり)。」(明治36年8月8日付け土宜法竜宛て書簡)

 一言でいってしまうと、この世の実相は「心」「物」「事」「名」の4つが織りなし展開されているだという。この世の物質的要素(「物」)を単純化し、記号や数字に置き換えるのが科学の抽象化なのに対して、南方曼陀羅の抽象化は、等身大の論理により物事の因果を解きあかし世界を解釈する。南方曼陀羅は、人間にとっていつの時代でも通用する論理であるという点では、時代のパラダイムに制約されている科学よりも普遍性があるという言い方もできる。

南方曼陀羅の読み変え
 ここからは熊楠の考えを紹介するというよりは、わたしのリアリティに引き寄せて上記の南方曼陀羅を読み変えたものである。熊楠は20世紀の物理学が到達した時空概念や因果性の破綻といった考え方以前の自然観に馴染んでいたという時代的な制約もあり、最初から大日如来(時空の由来)の世界を知ろうとすることは無用の穿鑿だと述べていた。だから南方曼陀羅は大日が人間界という範囲内で生起する局面をモデル化したものだ。
 それから約1世紀経った今、サイケデリクスの直接体験を基に南方曼陀羅のリアリティを深め、拡張してみるのは興味深い。なぜこんな余興にこだわるかというと、自己の人生を「心」「物」「事」「名」「印」の編み物として読み解いていくとき、全ての人の人生を貫く普遍的な何かに迫れるひとつのモデルが生まれるからだ。それは「生の幻想の交響の法悦」(松田政雄/「大麻の変性意識(10)」)といった機微にふれるリアリティの手応えを感じさせる。
 この世を早世した人も、長寿を全うした人も、不本意だったり、執着したり、諦めたり、一途だったり、要領がよかったり、あるいは波乱に富んだ、または平穏な人生だったりと、63億人が63億通りの人生を歩む。この世を知るということは、地球を他の惑星から眺めて俯瞰できるというよりは、63億人の人生が分かるということだろう。63億通りの人生に共通する何かを抽象化することができればその糸口ぐらいはつかめたことになるのではないか。今の人智では、そこまで達せれば上出来ではないか。熊楠が南方曼陀羅に懐いた思いもそういったところにあったのではないかと思う。

南方曼陀羅(「心」-「物」-「事」−「名」-「印」の仕組み/明治36年8月8日付け土宜法竜宛て書簡)

 南方曼陀羅の図を見ると胎蔵界(物質的な宇宙)の中に金剛界(精神的な宇宙)がある(もともと曼陀羅や胎蔵界、金剛界といっても、それは熊楠が持論を提示する際に用いた方便であったから真言密教の教義とは離れて考えていったほうがよいだろう)。金剛界の一部が「心」であり、「心」から「物」が生じるとされている。熊楠の描いた図を見ると「物」が生起し、存在するフィールドは胎蔵界とされている。胎蔵界と金剛界の関係は全体に含まれる部分というよりは、胎蔵界という4次元の時空連続体の裂け目に金剛界が特異点として現出しているのだと想像したい。
 「心」は主観/精神であり、「物」は客観/物質という言い方から出発しよう。これに対し、熊楠自身は一人の心はひとつではなく、数心が集まったものだと考えていた。ちょうど「心」はドミノ倒しの連鎖反応のようなイメージでとらえられる。多分、「心」をどう見るかの出発点が熊楠とわたしは違っているのだと思う。熊楠は「心」といっても自己意識も思考作用も一緒のものだと考えていたはずだ。思考は、そもそも言語がそうであるように過去に条件付けられている。人間は社会的な存在として生まれてくるから不可視の関係性のネットワーク、その網状組織のポイントとして心は位置づけられる。しかし「心」の本源である意識は、思考とは別のリアリティであり、そのことに熊楠は気づかないままだったのではないかと思う。

「心」と「物」が接して「事」が生じる(明治26年12月21日付け土宜法竜宛て書簡)

 「心」と「物」が接し作用しあい「事」(現実、出来事、「人界」(人間界)の現象)が生じる。それは人(「心」)が車、ペンや納品書や椅子・机、ボールやバット・グローブ、グラスや酒といった「物」と接して、ドライブ、伝票記入、野球、飲酒といった出来事が生まれるといった具合だ。また車(物)は約3000種といわれる部品(物)からなる総体で、個々の部品は鉄やアルミや炭素……究極的には素粒子に還元される(現実には、人間は「物」自体は認識しておらず、常に後述する「印」として自覚される)。 
 全く自分と同じ人間は過去にも未来にも存在しない。宇宙が生まれてから全ての「事」は一度しか起きていない。目の前で起きている人生の一駒一駒は、数知れない「心」と「物」の組み合わせの中から全て一度きりの「事」が現出しているものだ。
 今・現在しか存在しない「事」は瞬時に消滅し、常に現在形でしか現出しない。そのことは、われわれの生は、究極的には今しかなく、死ぬときも今と同じ今なのだという直観的認識としても確かめることができる。「事」と今は同格であり、今は時空の特異点としてある。「事」の抜け殻、残滓が「名」である。それは「事」(現在)に力(動作・運動=時間)が作用(経過)して「名」として実在化すると言ってもいいだろう。
 「名」は「物」や「事」と異質の独立した胎蔵界の要素だと熊楠は捉えている。「事」は胎蔵界の中に「名」として伝えられると熊楠は書いているが、それはオカルティズムで宇宙開闢以来の全ての出来事が記録されているとされるアーカシック・レコードを彷彿とさせる。また「宗旨、言語、習慣、遺伝、伝統」などは「名」として実在すると熊楠は言っているから「名」は文化、共同意識、アラヤ識をひっくるめたもの、もっと普遍的に捉えて自然界のパターン、物理法則、宇宙史のように解釈すべきだろう。
 そして「名」を心に映して生ずるのが「印」である。「事」と「名」は人間の通常の意識では自覚できないもので、「印」に至ってはじめて認識できる。「名」と「印」は同格であるが、「心」が接したか否かにより、接した刹那に「印」となる。そして「印」は「心」に記憶として残る。「印」は換言すれば意味=概念である。だから「事」(現在)が化石化したものが意味=「印」(過去)である。
 机、時計、地図、引き出し、窓、壁、桜、Gパン、コーヒーといった物であろうと、ケンカ、訴訟、通勤、テレビドラマ、営業目標、カッパ、日本晴れなど物でなくても、人間の心により「印」として受容される。人間が目にし、手に持ち、着たり、食べたり、使ったり、話題にしたりする「物」の基底には意味=概念がくっついている。意味(=「印」)は「物」と「心」をつなぐものだ。外部の客観世界を人間の内部の心理的世界につなげるものだ。
 「心」に「印」が記憶として残るということが思考である。だから思考は「印」という過去に条件付けられている。胎蔵界(時空)というキャンパスに描かれた絵である思考は、意味であるから「心」と「物」の接点で起きる。本来、金剛界の特異点である意識(ここでは「心」の本源といった意味)を思考(「心」の働き)が枠にはめてしまうのは、ひとつには「心」が「印」を介して「物」とつながっているからであり、もうひとつは「心」は「物」と接せずに「事」を起こせないからだ。
 「心」と「物」が接して「事」が起き、それが「名」、「印」(経験・情報・知識)となり、「心」はその「印」を記憶(蓄積)する。「心」の中に蓄積された過去の「印」を組み合わせる働きが思考である。記憶と思考は同じことである。次に、新たな記憶が加わった「心」が「物」と接して、次の「事」が起きる……その循環が人間界の実相である。老若男女、国籍・職業を問わず人間の一日の行動は、「心」と「物」の織りなす「事」の連鎖として整理できる。地球人口63億人ひとりひとりの世界は普遍的に共通した要素「心」「物」「名」「事」の組み合わせで成り立っている。
 ところで「名」がアーカシックレコードなら、「物」は世界線とでも言うべきだろうか。世界線とは、基本粒子の時空内の位置を縦・横・高さ・時間という4つの次元の広がりを持った軌跡として描いたものだ(物質の最小単位の粒子には、過去の全歴史の体験の痕跡が記録として残っており、それを再現できれば屍となり土に返った全ての死者が復活すると考えたロシアの神秘主義思想家、フョードロフを想起してしまう。さらに言えばハイパー・カーポレーションというテレンス・マッケナのアイデアのこともふれたいが、横道に逸れていくのでいつかまた)。仮に「物」の世界の実相(胎蔵界)を想像するとしたら、それは膨大な数の基本粒子が相互に錯綜して時間軸の方向に伸びている三次元断面が宇宙サイズもあるチューブのような世界線を想像すればいいのだろうか。ちょうど宇宙の極小単位の基本粒子と極大単位である宇宙の半径のだいたい中間ぐらいのサイズの人間界では、チューブの一断面の微細な局部が山や大地、道路や家、動物や家具という「印」として見えている。粒子の塊が人間やシャツ、時計の形状をとって見えている。
 われわれは夜空の星々や星雲といった宇宙(対象)を人間が独立した観察者として見ているという誤解に陥りやすい。人間サイズの時空(寿命×身長)では見かけ上、観察者と観察対象が自明のように区分されて認識される。しかし本当は、人間の体は自分を取り巻いている空間に同化されている。人間は時空構造に結びつけられていて、宇宙から自分を区別できない。また極小の世界では観察者(「心」)と観察対象(「物」)は同じ系をなしている。こういった知見は「観察者は観察されるものである」というクリシュナムルティの有名な一節――それは論理的結論ではなく直観的自覚として分かることだ――を裏付けている。
 このように見てくると「心」-「物」→「事」、「名」-「心」→「印」という具合に金剛界の「心」は、自らを取り巻いている胎蔵界に接することで世界が成立する。胎蔵界というのは想像を絶する凄い世界だ。ビッグバン以来の全ての物質が時空内で辿る軌跡(「物」)と、またそこで生起した全ての出来事の記録(「名」)を全て包括している世界だというのだから。一方、金剛界というのは想像もつかない摩訶不思議な世界だ。今として胎蔵界=この世に現出する金剛界という特異点の向こうには何があるのだろうか。

大麻の思考
 話のはじまりに戻ると、大麻により「抽象的に満足識ともいうべき識を生ず」という熊楠の指摘は、人間界の背景にある直には見えない「心」「物」「事」「名」の織りなすリアリティの世界の認識を指しているのではないかと思う。大麻によりそういうリアリティが得られるというのだ。
 熊楠は幽霊をよく見た人であったし、神通・調伏のような力があったとか、夢でお告げを受けるといった体験を度々していたという。ある書簡には「又脳が異様の組織と見えハッシシュ(大麻)を用いる人の如く個人分解(一人で居ながら二人にも三人にもなるなり)をなし申候」という記述もある。
 このハッシシュの一節は熊楠の体験から語っているのか、文献からの知識かはっきりしないが、想念のありありとした強烈さ、奔放・活発さが天分であったことを示しているように思える。それは多くの人が大麻で体験する一駒と類比することができる。眩暈のように思考がぎらつく、次々にイメージが膨らんで、思考の連鎖反応が止まらないといった体験をすることがある(その状態をコントロールできず、その渦巻きに引き込まれ翻弄されるのは、どちらかと言うとバッド・トリップかもしれないが)。
 熊楠の「個人分解」という文言を、大麻体験が豊富な人が読めば、それはソファーから立とうとか、窓を開けようとか、ある行為をしょうとするとき、心の内でその否定と肯定が同時に起きている心理状態や次々にいろいろな考えが沸き起こり、どれが自分の考えか訳が分からなくなるといった心理状態が想起されるするはずだ(それは酩酊の一種であり、余暇時間にそういう時間を過ごすのは本人の内面世界の自由に属することだと思う。また、通常、それが後々まで残ることはない)。
 よく知られている大麻の精神作用として、イマジネーションが豊かになる、空想、奇想、妄想、夢想、幻想、いろいろな言い方があるが、想念が通常の日常意識では及びもつかないぐらい奔放・活発になることがあげられる。こうした活性化した想念によって得られた識こそ、あまたの土地の過去・現在にわたる習俗や生活習慣・儀礼・伝統を記録し、そこに共通する何かを抽象化する「満足識」ではないかと思う。それは家具からシャツ、おにぎりまでデパートやコンビニで売られている諸々の商品に共通する、それ自体は目に見えない「使用価値」と「交換価値」を幻視する抽象的思考と同タイプの識ではないか。
 日常、物事にこびりついた意味や価値判断、好き嫌い、思い込みから自由になること、こういったフィルターを通さずに物事の実相を識ろうとするとき、知識や情報ではなく、目の前で日々起きている物事の関係が全然別の姿を持って見えてくる。本来、無関係だったと思っていた出来事どうしに共通する何かを発見する。
 現代では主流になっている、より深く知ることとは物事の分類を細かくしていくことだという条件付けされた思考に対し、物事に共通する何かを識るという、抽象化していく思考が「満足識」、あるいは大麻の思考のように思われる。こういう思考を内発的に、当たり前にしている人もいるかもしれない。しかし、われわれのほとんどが成長期に学ばさられる教育や伝統、さらに秩序に従順であることを強く求められるこの国で生きていくために、思考は条件付けの反復に終始しているのではないかと思う。
 大麻の思考と言っても、それは大麻を体験しているときにしか起きないことではない。それによって気づきが起き(それを掴め)れば、人により濃淡の違いはあるだろうが、そのリアリティは日常意識のもとでも想起することが可能だ。だから問題は、最初の気づきにかかっている。この国のように、強固な条件付けで思考がコントロールされている社会では、それを自らの内発的な力で解放するのは難しいのではないかと思う。読書や瞑想で、それができる人もいるかもしれないが、世の中の現状を見るに大勢としては難しいのではないだろうか。
 考えてみれば、こういう社会だからこそ、大麻が必要なのではないかとも思える。正直言って、大麻以外にここでいう「満足識」を得る有効な方法は思いつかない。「満足識」を得られると言っても、実利性や何かに役立つものを求めている多くの人々にとっては無意味なことだろうが、この世界の実相を識りたいという稀有な人々にとっては大きな意味があるはずだ。

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