ALTERED DIMENSIN
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2009.06.03
[ひとりごと]

南インドのスパイスと日本の旨味

  先週、南インドで旅行業をしているAさんの話しを聞いた。一年ぶりだったが、大規模なテロがあったり、昨年10月からの世界的な経済危機の渦中でもありながら、経済の発展は相変わらずのようで、インド社会は活力に溢れ、元気いっぱいのようだ。
 Aさんからは、いつも、なるほど、なるほど、と、ありのままのインドを教わってきた。南インドの食べ物の話しを聞いていて、印象に残ったことをふたつほど書いてみる。


南インドの田舎のお祭りにて。豆のペーストを丸めた団子を揚げていた。芳ばしく、エビみたいな味がして美味しかったのを憶えている。どの屋台、出店もみんなベジタリアン料理だった。
食の平等な社会

 南インドの庶民の食事は、毎日、だいたいおなじ物を食べている。日本人からすると、同じものばかり、毎日、毎日、飽きないかと思うのだが、生まれてからそれが当たり前で育ってきたインド人には、そんな疑問など生まれようもない。
 南インドでは、ふだん肉は食べない。わたしは、昨年、はじめてカルナータカとタミルナードゥに行ったが、どこでもベジタリアン料理だった。もう少し幅があるかと思っていたが、街の定食屋、寺院、家庭、みごとにベジタリアン料理だけだった。
 肉だけでなく魚も食べない。肉食を禁じる戒律のようなものがあるというわけではないようだ。年に一度のお祭りのときは、羊や鶏をしめて家族で食べる。子供たちは、それが特別なご馳走の日のようで、食事の前からソワソワしていた。
 毎日、野菜とお米の食事で、味つけは、辛くなくてマイルド、薄味。憶えている限りではトウガラシは全然使っていない。みんな手で食べている。田舎ではバナナぼ葉がお皿だった。
 
 Aさんによれば、南インドでは、王様、マハラジャも庶民も食べる料理は、たいして変わらないらしい。食という面では、平等に近いのではないかと言う。
 ヨーロッパの料理やトルコ料理、中華料理と、贅を尽くした王宮料理がある一方、庶民が食べていたものは、当然ながらそんな贅沢なものではなかった。中国では、権力者の命令で、山海の珍味を求めて四方八方、探し回るといった類の話しをよく聞いてきた。当然、古い時代からたくさんの王国が栄えては滅ぶ、そんな歴史を繰り返してきたインドも、その手の話しがたくさんあるに違いないと思ってきた。
 インドといえば、カースト制というぐらい身分・階級の区別が、今も厳然と存在している。カーストの違う人間どうしが一緒に食事することはないという。
 ところが、食べ物の内容や調理の仕方、要はどんな料理を食べているかという面では、王様も庶民もそんなに違わないらしい。(階層の)上も下も、要は、ドーサー、イドゥリ、ご飯、豆、野菜といったものを食べているということでは同じだという。
 強いてあげれば、高価なサフランやカルダモンのようなスパイスをたくさん使うということが違いと言えば違いになるが、しかし、スパイスはたくさん入れれば美味しくなるというものでもないし、適量というのは決まってくるので、すごく違うというほどでもないようだ。
  
インド人と旨味

 Aさんに、かねてから感じてきた素朴な質問をぶつけてみた。インド料理、といっても、この場合、南インドの料理ということになるが、結局、スパイスで味ずけしているということなのではないかと思う。Aさんは、まあ、そんなところでしょうか。スパイスと油ですかね、と答えてくれた。
 牛や豚、チキン、羊といった動物の肉の味には、人を引き付ける一種、魔力的な魅力、豊潤さ、豊かさがある。その味覚を憶えた人々にとって、肉のない味は、なんとも味気ないものに感じられるはずだ。
 
 と、そんなことを考えていて、ではインドの人が日本の旨味をどう感じるかAさんに聞いてみた。Aさんが言うには、スパイスの(比較的)強い味に慣れ親しんでいるインド人にとって旨味は、よく分からないかもしれないとのことだった。はっきりしない、あいまい模糊な味覚で、で自覚するのが難しいらしい。
 旨味、日本の料理のベースにあるダシの味、言葉でどう表現したらいいのだろうか、あのまったりした味。
 関西に行くと、まず立ち食いのうどんを食べる。関東の蕎麦やうどんだと、しょうゆの塩の味の強さに押されてる、昆布のダシのちょっと甘ったるい味。あるいは、マグロを捌いて、そのまま一切れ口に入れると、舌の、たぶんまん中から付け根あたりで感じる味覚、そこに同質の旨味を感じる。
 日本人は、この味を珍重し特化する工夫を積み重ね、文化的に実体化させてきたのではないかと思う。本来は、「本来」ということは、世界の多くの地域ではといった意味であるが、この味は、昆布や鰹節のかもしだす微細な、奇妙な味覚だったのではないかと思う。
 
 それに比べると、スパイスの味は、はっきりしている。とはいえ、だから味として単純だと貶めることもできない。スパイスは組み合わせることで、一種のハーモニーも作れる。南インドの家庭料理は、そういう方面に長けていると聞いた。
 田舎の家に泊まったとき、いただいた料理は、何十種類かのスパイスが入っているという説明を聞いた。口にしてみると、別に辛いでも、酸っぱいでもない。日本のインド料理の店のようなスパイスの強い個性はまるでない。こういったインド料理は、インド独立の際、パキスタンとの間で分断されたパンジャブ州の人々が世界中に散らばって、自分たちの郷土料理をインド料理として広めたことに由来しているとか。
 正直言って、自分には、はっきりしない凡庸な味のように感じたが、もしかしたら、複雑で繊細なハーモニーを判別できないのかもしれない。もしかしたらではなく、たぶん、そうなんだと思う。
 日本人が、外国語の音を聞き取るのが苦手なのは、あいうえおの五十音の音韻の数が少ないことが影響しているといわれる。味覚や聴覚だけでなく、結局、感覚もその文化によって条件付けられているということなのではないか。
  
 自分が言っていることは的外れだろうか。栄養や体質、健康の面からベジタリアン料理や肉食について語っている本はよく見かけるが、味覚から、つまり感覚からの視点もあっていいのではないか。
 世の中は、あれが美味しい、これが美味しいと美食ブームが続いているが、異文化の中には、今のわれわれの感覚ではとらえられない味覚、美味があって、それは何も隠されてるわけでもなんでもないごく普通の家庭料理だったりして、そんなことを夢想していると、どこかワクワクしてくる。